これからのビジネス常識:企業の「総排出量」を理解するということ
「サプライチェーン排出量」という言葉を聞いて、あなたは「環境部門の専門用語」だと感じていないでしょうか。もしそうなら、その認識を今すぐアップデートする必要があります。なぜなら、この概念はもはや特定の部署の課題ではなく、これからの時代をリードするすべてのビジネスパーソンにとって必須の経営リテラシーとなりつつあるからです。
現代において、投資家や顧客、そして優秀な人材は、企業をその「四方の壁の内側」だけで評価することはありません 1。彼らが見ているのは、原材料の調達から製品が消費され、廃棄されるまで、その企業の事業活動に関わるすべてのプロセス、すなわち「サプライチェーン全体」です。
サプライチェーン排出量とは、この一連の流れ全体から発生する温室効果ガス(GHG)の総量を指します。自社の工場やオフィスからの直接的な排出だけでなく、取引先である部品メーカーや物流会社、さらには自社製品を使用する顧客が排出する温室効果ガスまで含んだ、文字通り企業の「真の環境フットプリント」なのです。
この考え方が急速に重要性を増している背景には、ESG投資の拡大や国際的な情報開示基準の強化があります。多くの企業にとって、自社の直接排出量(Scope1, 2)よりも、サプライチェーン上の排出量(Scope3)の方がはるかに大きいという事実が明らかになってきました。あるレポートでは、サプライチェーン排出量は自社排出の平均で26倍にも上ると報告されています。これは、企業にとって最大のリスクと事業機会が、自社の管理の及ばないサプライチェーンの中に眠っていることを意味します。
この複雑な全体像を読み解き、データを分析し、サプライヤーとの関係を再構築しながら排出量を削減へと導く。こうした能力を持つ人材こそが、これからのGX(グリーントランスフォーメーション)時代において、企業の持続的な成長を牽引するキーパーソンとなります。本記事では、サプライチェーン排出量の基本から、それがもたらすビジネスインパクト、そしてあなたの市場価値を飛躍させるキャリア戦略までを、専門的かつ分かりやすく解説します。
サプライチェーン排出量の解体新書:Scope1, 2, 3の決定的違い
サプライチェーン排出量を正確に理解するためには、その構成要素である「Scope(スコープ)」という分類を把握することが不可欠です。この分類は、温室効果ガス排出量の算定・報告における国際的な基準である「GHGプロトコル」によって定められており、グローバルな共通言語となっています。
Scope1:直接排出量(自社が燃やす燃料)
Scope1は、事業者が自ら所有または管理する排出源から直接排出される温室効果ガスを指します。これは最も分かりやすく、企業が直接的にコントロールできる範囲です。
- 具体例:
- 工場のボイラーや社有車で使用する燃料(ガソリン、軽油、都市ガスなど)の燃焼
- 製造プロセスにおける化学反応による排出
Scope2:間接排出量(自社が使うエネルギー)
Scope2は、他社から供給された電気、熱、蒸気の使用に伴って間接的に排出される温室効果ガスです。自社で排出しているわけではありませんが、自社の事業活動のために購入したエネルギーに起因するため、算定の対象となります。
- 具体例:
- オフィスや工場で使用する電力(その電力を発電するために発電所が排出したGHG)
- 地域から供給される熱や蒸気の使用
Scope3:その他の間接排出量(自社の活動に関連する他社の排出)
Scope3は、Scope1とScope2以外の、企業のバリューチェーン全体で発生するあらゆる間接排出を包括する、最も広範で複雑なカテゴリーです。GHGプロトコルでは、これを15のカテゴリに分類して算定します。
- 主な上流カテゴリ(自社が製品を作るまで)の例:
- カテゴリ1:購入した製品・サービス(原材料や部品の製造に伴う排出)
- カテゴリ2:資本財(生産設備の建設・製造に伴う排出)
- カテゴリ4:輸送、配送(上流)(サプライヤーから自社への輸送に伴う排出)
- カテゴリ7:雇用者の通勤(従業員の通勤に伴う排出)
- 主な下流カテゴリ(自社が製品を販売した後)の例:
- カテゴリ9:輸送、配送(下流)(顧客への製品輸送に伴う排出)
- カテゴリ11:販売した製品の使用(顧客が製品を使用する際の排出)
- カテゴリ12:販売した製品の廃棄(顧客が製品を廃棄する際の排出)
企業変革の震源地:なぜScope3がゲームチェンジャーなのか
サプライチェーン排出量の中で、なぜScope3が特に重要視されるのでしょうか。その最大の理由は、多くの企業にとって、Scope3が総排出量の大部分を占めるからです。業種によっては、総排出量の8割以上がScope3に起因することも珍しくありません。
これは、企業の真の気候変動インパクトと、それに伴うリスクの大部分が、自社の直接的な管理外であるサプライチェーンの中に存在することを意味します。つまり、Scope3を無視しては、企業の脱炭素化は達成できず、気候変動リスクへの本質的な対応も不可能な時代に突入したのです。
キャリアへの示唆
Scope3の圧倒的な規模と複雑性は、裏を返せば、そこに新たな専門性とキャリア機会が生まれていることを示しています。単に排出量を「算定」するだけでなく、そのデータを「解釈」し、排出量の多い「ホットスポット」を特定し、具体的な削減戦略を立案・実行できる人材への需要が、今まさに急増しているのです。
「義務」から「戦略」へ:排出量算定がもたらす企業価値
サプライチェーン排出量の算定を、単なるコンプライアンス対応や報告義務だと捉えるのは、あまりにもったいない見方です。先進的な企業は、これをリスク管理と事業機会創出のための強力な「戦略的ツール」として活用しています。
ESG経営における「守り」と「攻め」
排出量の可視化は、企業のESG経営において攻守両面で価値を発揮します。
- 守り:リスクの低減サプライチェーンを詳細に分析することで、これまで見過ごされてきたリスクが明らかになります。例えば、炭素集約的なサプライヤーへの依存、将来の炭素税導入によるコスト増、人権問題などによるレピュテーション(評判)の毀損といったリスクを事前に特定し、対策を講じることが可能になります。
- 攻め:事業機会の創出排出量算定は、新たなビジネスチャンスの扉を開きます。
- ESG投資の獲得: 機関投資家は、企業の長期的な成長性やリスク管理能力を評価する上で、Scope3を含むサプライチェーン全体の排出量データを最重要指標の一つと見なしています。透明性の高い情報開示は、有利な資金調達に直結します。
- 競争力とイノベーションの強化: 排出量の「ホットスポット」を特定することは、製品の軽量化や素材の見直し、省エネ性能の向上といった技術革新のきっかけとなります。これはコスト削減だけでなく、製品の付加価値向上にも繋がります。
- 新規ビジネスの開拓: グローバル企業を中心に、サプライヤー選定の基準に「環境パフォーマンス」を組み込む動きが加速しています。自社の排出量を正確に把握し、削減努力を示すことは、新たな取引を獲得するための強力な武器となります。
- 優秀な人材の確保: 特に若い世代を中心に、企業のサステナビリティへの取り組みを重視する傾向が強まっています。サプライチェーン全体での脱炭素化という明確なビジョンは、優秀な人材を惹きつける重要な要素です。
信頼性の礎:GHGプロトコルの5原則
排出量情報がこれほどの戦略的価値を持つからこそ、その算出と報告には財務報告書並みの信頼性が求められます。GHGプロトコルは、その信頼性を担保するために、以下の5つの原則を掲げています。
- 妥当性 (Relevance): 算定対象範囲を適切に設定し、企業のGHG排出量を正しく反映させる。
- 完全性 (Completeness): 設定した範囲内のすべての排出源と活動を網羅し、報告する。
- 一貫性 (Consistency): 経年比較が可能なように、一貫したアプローチで算定する。
- 透明性 (Transparency): 関連するすべての情報を開示し、第三者が検証可能なように記録を残す。
- 正確性 (Accuracy): 算定の不確実性を可能な限り低減し、合理的な精度を保証する。
これらの原則を理解することは、信頼性の高い情報を扱うプロフェッショナルとしての基礎体力となります。
キャリアへの示唆
排出量データをビジネス価値に「翻訳」できる能力は、極めて希少で価値の高いスキルです。脱炭素化プロジェクトを単なる「コスト」ではなく、リスク低減、ブランド価値向上、市場アクセス拡大への「投資」として経営層に説明できる人材は、部門を問わず高く評価されます。GHGプロトコルに準拠したプロジェクト経験は、あなたの経歴に確かな信頼性を与えるでしょう。
Scope3という難題:新たなプロフェッショナルの価値が生まれる場所
サプライチェーン排出量の中でも、Scope3の算定は特に困難を極めます。しかし、この「難しさ」こそが、新たな専門職が生まれ、個人の市場価値が鍛え上げられる最前線です。
データというジレンマ:なぜScope3算定は難しいのか
Scope3算定が直面する主な課題は、以下の3つに集約されます。
- データ収集の膨大な工数と品質の問題最大の障壁は、社外の広範なサプライヤーネットワークから正確なデータを収集することです。特に中小企業などは、排出量を算定するためのリソースやノウハウが不足している場合が多く、データ収集は困難を極めます。経済産業省の調査でも、多くの企業がサプライチェーンに関するデータ収集を最重要課題として認識しています。
- 1次データと2次データの壁排出量の算定には、サプライヤーから直接提供される「1次データ」と、業界平均値などを用いる「2次データ」があります。2次データは入手が容易ですが、精度が低く、個々のサプライヤーの削減努力を反映できないという致命的な欠点があります。真に意味のある削減を進めるには、困難であっても1次データの収集を目指す必要があります。
- リソースと社内調整の複雑さScope3算定には、専門知識を持つ人材、専用のITツール、そして調達・サステナビリティ・財務といった部門間の緊密な連携が不可欠です。これらのリソースを確保し、全社的な協力体制を構築すること自体が、一つの大きなプロジェクトとなります。
新たなコア・コンピタンス「サプライヤー・エンゲージメント」
これらの課題に対する唯一かつ本質的な解決策が、「サプライヤー・エンゲージメント」です。これは、従来の「買い手と売り手」という取引関係を超え、脱炭素という共通の目標に向かって協働するパートナーシップを構築することを意味します。
この分野の先進事例として、大日本印刷(DNP)が挙げられます。同社は、主要なサプライヤーに対してGHG削減目標の設定を働きかけるなど、サプライチェーン全体での協働を積極的に推進した結果、国際的な環境非営利団体CDPによる「サプライヤー・エンゲージメント評価」において、6年連続で最高評価を獲得しています。これは、サプライヤーとの対話と協力が、企業価値を高める上でいかに重要かを示す好例です。
キャリアへの示唆:難題を解決する人材の市場価値
Scope3算定の難しさは、それを乗り越えるスキルを持つ人材の価値を飛躍的に高めています。この新しい領域では、従来の職務の枠組みを超えた、複合的な能力が求められています。以下の表は、サプライチェーンの脱炭素化というメガトレンドの中で、特に価値が高まっている職務領域と、そこで求められるスキル、そして期待される年収レンジをまとめたものです。
| 職務領域 | 主な役割・責任 | 求められる重要スキル | 想定年収レンジ |
| 経営企画・サステナビリティ部門 | ・全社的な脱炭素ロードマップ策定 ・非財務KPIの設定と管理 ・TCFD提言、統合報告書での情報開示 ・CDP等、外部評価機関への対応 | ・戦略的思考力、データ分析能力 ・国際的な開示基準(TCFD, GHGプロトコル)の知識 ・プロジェクトマネジメント能力 | 800万~1,800万円以上 |
| 調達・購買部門 | ・サプライヤーのESGリスク評価と選定 ・サプライヤーへの排出量データ提供要請 ・サプライヤーとの協働による削減プロジェクト推進 ・サステナブル調達方針の策定・実行 | ・サプライヤーエンゲージメント能力 ・交渉力、パートナーシップ構築力 ・LCA(ライフサイクルアセスメント)の基礎知識 ・契約管理能力 | 700万~1,200万円以上 |
| ESG・GXコンサルタント | ・Scope1-3排出量の算定支援 ・削減戦略の立案と実行支援 ・サプライチェーンの課題特定と改善提案 ・第三者保証・検証のサポート | ・高度なデータ分析・モデリング能力 ・特定業界のサプライチェーンに関する深い知見 ・高いコミュニケーション能力 ・最新の規制・政策動向の把握 | 700万~2,000万円以上(マネージャークラス以上) |
(注)年収レンジは、公開されている求人情報や業界レポートを基にGX Talent編集部が作成した参考値です。
特に注目すべきは、調達・購買部門の変革です。かつてはコスト削減が至上命題だったこの部門は、今やサプライヤーのESGパフォーマンスを評価し、パートナーシップを構築して共に価値を創造する、極めて戦略的な役割を担うようになっています。コスト管理能力に加え、ESGという新たな評価軸を使いこなし、サプライヤーを巻き込みながら企業全体のレジリエンス(強靭性)を高められる人材は、今後ますます引く手あまたとなるでしょう。
結論:不可逆なGXの潮流に、自らのキャリアを同期させる
本記事で見てきたように、「サプライチェーン排出量」の理解は、もはや環境の専門家だけのものではありません。それは、事業の持続可能性を左右し、企業価値そのものを定義する、ビジネスの根幹に関わるテーマへと進化しました。
この流れは一過性のトレンドではなく、不可逆な構造変化です。投資家からの要請、国際的な規制、そして消費者の価値観の変化は、今後ますます企業に対してサプライチェーン全体での透明性と責任を求めていくでしょう。
重要なのは、この大きな変化を、あなた自身のキャリアを飛躍させる機会として捉えることです。ぜひ、現在のあなたの仕事や役割を「サプライチェーン」というレンズを通して見つめ直してみてください。
「自社のバリューチェーンの中で、自分はどこに貢献できるだろうか?」
「どのデータを集める手助けができるだろうか?」
「どのパートナー企業との対話を深めることができるだろうか?」
こうした問いを立て、主体的に行動を起こすこと。それこそが、これからのGX時代を生き抜くための最も確かな戦略です。サプライチェーンの脱炭素化という壮大な課題に挑むことは、自らの市場価値を高め、より大きな戦略的意思決定に関与し、そして持続可能な未来の実現に貢献する、またとないキャリア機会となるはずです。
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